よみがえる大神輿

よみがえる大神輿

この堺渡御の神輿は大阪第一の大神輿で目方七百貫、
それをかつぐ若者の数は実に三百数十名を必要とするもので淀君奉納の有名なソリ橋の上を物凄ききしみの音をたてて渡る、
その壮観を見る人の感は一喜一憂交々去来御輿の安否を気遣ふことは人のよく知るところです。
(『関西中央新聞』昭和7年7月19日より抜粋)

大阪一の大神輿

住吉祭の象徴

かつて住吉祭には「大阪一を誇る大神輿」が渡御していた。今では、その存在を知る人は少ない。大神輿は実際に舁かれる神輿の中では最重量を誇り、かつて摂津・河内・和泉の三国一の大祭として名を馳せた「住吉祭の象徴」であった。
この大神輿は明治14年(1881)7月31日に奉納された。住吉大社では明治11年から12年にかけて式年遷宮が実施されており、その奉祝として大神輿新調奉納が発起されたものと推察される。昭和初期の新聞には「目方700貫」と書かれる実に巨大な神輿である。
明治・大正・昭和と住吉祭で渡御していたが、昭和16年、戦争の世相によって大神輿の渡御が中止される。戦後再び舁き出すことも度々願われたが、昭和36年以降は渡御そのものが車輌列になり、舁かれることなく現在に至っていた。
平成17年に人力による神輿渡御が45年ぶりに復活。10年が経過し神輿会会員の熱意と地域の関心も年々高まるなか、永年眠り続けていた「大阪一の大神輿の渡御を復活させる事が住吉祭の真の復活」との声が挙がってきた。

しかしながら老朽化した大神輿は舁き出すこともままならず、住吉祭の折に展示するに留まっていた。「神輿渡御復活10年を契機に大神輿を復活させ、更なる住吉祭の発展を願いたい」との地域の強い要望は住吉大社を動かした。平成25年、大神輿修復が決定される。
大神輿の復活は住吉祭の復活であり、すなわち祭を支える地域住民の隆昌の極みである。大阪に「魂揺さぶる祭り」が復活する。

大神輿と斎牛(昭和10年)斎牛は宿院頓宮から本社へ還輿の際に大神輿を曳いた

1番右が大神輿

大神輿の修理について

平成25年初夏、解体された大神輿は金具はモリモト社寺工芸社(京都市)に、木部大工は井波社寺建築(富山県)、木彫部は南部白雲木彫刻工房(富山県)にと、各所にて修繕および復元作業が始まった。明治14年、当時の1370円の代価で謹製された大神輿。
今回の修復作業によって製作時や修復の来歴について様々なことが明らかになってきた。
大神輿の頭上に輝く鳳凰の木部胴体から、製作者の銘として「京都七條通り新町東入/寺本勘助/納受/明治十二年九月六日」があり、修復の追記として「大阪南堀江/昭和五年七月三十日直し/小西治三郎」、また「昭和九年七月直し」との墨書が見つかった。
さらに鳳凰台座、平瓔珞基部木材、鳥居笠木裏にも墨書があり、いずれもが寺本勘助の製作にかかることが判明した。
寺本勘助は幕末から明治にかけて腕をふるった職人で、尾張屋勘助と号した京都の錺金具師の名人であった。

大神輿は明治14年7月30日付で奉納されているので、既に明治12年には寺本勘助の手によって製作が始められていたことが伺える。

大神輿の概要

製作年 明治14年(西暦1881年)7月31日付 奉納
奉納者 今田 忠兵衛(西区北堀江二番町)
指吸 千太郎(堺区寺地町西)他 14名
製作者 錺金具師 寺本 勘助(京都 七条通新町東入西境町)
全高 3,040mm(土台下~鳳凰最頂点)
全長 4,966mm
台座幅 1,464mm
轅全長 11m(新調)
轅重量 1本 150㎏

平成の大修復 新調された神具

■ 轅(ながえ)
神輿本体に結わえ担う為の棒 長さ11m、重量1本150㎏

■ 鳴環(なりかん)
轅の両先に着けられる鳴金具 真鍮製 重量約15㎏
神輿振りの際に、「シャリン シャリン」と美しい音がなる。
住吉大社の神使が鳴環に刻まれた。

■ 神輿内陣御彫刻(みこしないじんおんちょうこく)
 彫刻 三代目 南部白雲氏
住吉大神の御神霊が遷される神輿内陣壁面に住吉三神を、天井には飛翔する白鷺の彫刻を施した。
今後は御扉が閉じられ、人の目に触れる事はない。

  • 製材前の桧の原木

  • 轅の先端

  • 住吉神輿會御轅の彫刻

  • 鳴環(なりかん)

  • 神兎波涛

  • 白鷺飛翔

季節の祭りと年中行事