住吉大社の由緒

摂津国一之宮
住吉神社の総本社

古くは摂津国 (せっつのくに=大阪府北西部と兵庫県南東部を占める旧国名) の中でも、由緒が深く、信仰が篤い神社として、「一之宮」という社格がつけられ、人々に親しまれてきました。昭和21年までは官幣大社であり、全国約2300社余の住吉神社の総本社でもあります。

鎮座

神功皇后摂政11年(西暦211年)

社格

・延喜式名神大社
・神階正一位
・二十二社
・摂津国一之宮
・旧官幣大社

祭神

第一本宮 底筒男命
第二本宮 中筒男命
第三本宮 表筒男命
第四本宮 息長足姫命(神功皇后)

祭神の由緒

住吉大社の祭神は、伊弉諾尊が禊祓を行われた際に海中より出現された底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神、そして当社鎮斎の神功皇后を祭神とします。仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬をあつめ、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰もあり、禊祓・産業・貿易・外交の祖神と仰がれています。

「日本書紀」や「古事記」の神代の巻での言い伝え

伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、ケガレを受けてしまいます。そのケガレを清めるために海に入って禊祓いしたとき、住吉大神である底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと) が生まれました。

鎮座の由緒

住吉大社は、第十四代仲哀天皇の后である神功皇后 (じんぐうこうごう) の新羅遠征(三韓遠征)と深い関わりがあります。神功皇后は、住吉大神の加護を得て強大な新羅を平定せられ無事帰還を果たされます。この凱旋の途中、住吉大神の神託によって現在の住吉の地に鎮斎されました。のちに、神功皇后も併せ祀られ、住吉四社大明神として称えられ、延喜の制では名神大社、二十二社の一社、摂津国一之宮、官幣大社に列せられています。


住吉大神御神影

伝統ある式年遷宮

住吉大社の遷宮

伊勢の神宮では、20年ごとに社殿をことごとく造り替えて大神を新宮にお遷しします。これを式年遷宮と言います。住吉大社でもこの制度が定められ、奈良時代以来20年ごとに遷宮が行われてきました。記録上の初見は、天平勝宝元年(749)、この時にはすでに積習となっていたことが見えるので、少なくともこれまでに数回の遷宮が行われていたことがうかがえます。
以後、平安、鎌倉時代を経て室町時代の永享6年(1434)まで20年ごとの式年遷宮の跡は明確に巡り得ますが、戦国乱世になると遷宮は困難を極め半世紀以上に渡り中断されました。しかし、住吉大社に対する民衆の崇敬は絶える事なく遷宮の制度は再び甦みがえります。明治以後は昭和・平成と回を重ね、平成23年の御鎮座1800年記念大祭に合わせて国宝社殿の塗替をはじめ諸建造物の修繕を行う「第49回式年遷宮」が斎行されました。

住吉大社について